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新宿御苑(内藤町)

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写真: 新宿御苑(内藤町)

写真: 新宿御苑(内藤町) 写真: 新宿御苑大木戸門(内藤町)

mixiアルバムコメント――
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2012年01月11日 05:29
※超おまけ。武田大好きな(///д///)ノシ
・甲斐系内藤氏――甲斐に土着した一派。代々武田氏に仕えたとされるが、内藤虎資が守護武田信虎に粛清され、一時断絶している。
戦国期、平安時代後期に甲斐へ土着した工藤氏の系譜を引く内藤氏の活動がみられる。
藤原為憲 祖の藤原南流のいずれの“工藤氏”でもなく、後三条源氏(後三条天皇の三男 輔仁親王(すけひと)の第二皇子 源有仁(みなもとのありひと)を血脈の祖とする)の流れ。なぜ工藤姓かは不明。

●武田四名臣、内藤昌秀(工藤祐長)――
大永2(1522)年、武田家重臣、工藤虎豊の次男として誕生する。

工藤下総守虎豊は、郡内領主14代小山田弥太郎信隆とともに武田宗家の内乱(明応3(1495)年頃〜、17代武田信縄 対 父 信昌(1491隠居済)・次男 油川信恵。のち18代信虎 対 信恵の家督争い)で信恵に荷担し、守護武田信虎と合戦している。
永正5(1508)年、信虎の勝利、信隆は討死、虎豊は帰参を許される。いずれの際か、虎豊は伊勢宗瑞(北条早雲)を頼ったとか。
天文5(1536)年、今川家の内乱に敗北した玄広恵探(げんこう えたん)の処遇に反し、内藤虎資と工藤虎豊は共に粛清された。

天文15(1546)年、晴信に召還され、工藤氏の旧領と家督を継ぐことを許される。さらに父の罪を謝罪された上、金子も与えられたという。また、50騎持の侍大将に抜擢される。
信濃平定、川中島、西上野侵略、西上……信玄の代表的な戦の全てに参加している。そして常に武功を立てている。しかし信玄は一度として感状を送っていない。
このことについて“甲陽軍鑑”では、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評し、敢えて一通の感状も出さなかったとか。
一方の昌秀も、「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなど気にもかけなかったとか。
同じく甲陽軍鑑で、山県昌景が昌秀のことを「古典厩信繁(武田典厩信繁)、内藤昌豊(現在は昌秀が正しいという説が強い)こそは、毎事相整う真の副将なり」と評したと記してある。
天正3(1575)年、長篠の戦いにおいて討死す。
昌秀には実子がなく、信濃国衆 保科正俊から養子(内藤昌月(まさあき))を迎え、内藤姓と家督を引き継ぐ。武田氏滅亡後は織田信長、死後は北条氏直に仕え、昌月が天正16(1588)年に死後(嫡子 直矩)は、会津保科氏(のちの会津松平氏)に仕えた。



2013年04月04日 00:00
2012年01月11日 05:28投稿記事に誤字発見。訂正しました<(_ _)>

●高遠藩内藤家――
・清次――
慶長12(1607)年、家光傅役。
大坂夏の陣では書院番頭、のちに奏者番。
元和2(1616)年、老職(後の老中に相当)就任。
元和3(1617)年、41歳で死去。

・次男 清政――
・三男 正勝――
安房勝山藩初代藩主。3万石に加増。しかし早逝。嫡子なく、弟の三男 正勝も幼少にて改易。
のち、遺領として2万石を拝領。大名として復帰。2代藩主となるが、寛永6(1629)年、22歳の若さで死去。葬儀は江戸の太宗寺で営まれ、後にこの寺が内藤氏の菩提寺となる。

・重頼――
高遠藩内藤家・内藤高遠家5代。
正勝嫡男。幼少にて、遺領2万石のうち5000石のみを相続。安房勝山藩は減封・廃藩。大名から旗本へ転落。
万治3(1660)年 定火消を皮切りに、書院番頭、大番頭、御側衆を歴任。
寛文2(1662)年、従五位下・若狭守に叙任。
寛文8(1668)年、正勝の葬儀を行った僧 太宗に寺地を寄進し、江戸に太宗寺を創建。
延宝4(1676)年、所領を安房国長狭郡から下野国内へ移封。
延宝8(1680)年、綱吉嫡男 徳松の傅役に就任。上総国・常陸国・下野国内で3000石を加増、合わせて8000石を領す。
貞享元(1684)年、徳松死後、若年寄となり常陸国内に5000石加増、合計1万3000石となり内藤家は大名に復帰する。
貞享2(1685)年、大坂城代に転じ、摂津国・河内国内で2万石を与えられ3万3000石となる。摂津富田林藩初代藩主。
貞享4(1687)年、京都所司代を命ぜられ、従四位下・侍従に叙任。
元禄3(1690)年63歳で死去。自身は京都の金戒光明寺に埋葬された。
男子はなく、天和元(1681)年に養子としていた甥(妹の子)の清枚(きよかず。旗本 水野守政の次男)が跡を継ぐ。

・清枚(きよかず)――
高遠藩内藤家6代。
正勝の娘が嫁いだ旗本 水野守正の次男。
摂津富田林藩2代。信濃高遠藩初代。
元禄4(1691)年、信濃国高遠藩へ移封される。

以後、高遠藩内藤家は明治維新まで約180年間存続していく。



2013年04月04日 00:00
2012年01月11日 05:28投稿記事に誤字発見。訂正しました<(_ _)>
↑に際し分割。

※鎌倉街道は“幻の道”と呼ばれている。
鎌倉幕府の史料、“吾妻鏡”に子細が述べられていない。
現在想定される道は(“鎌倉との往還道”と称されていた。実際に存在する道を除く)、各地方へ進行、または“いざ鎌倉”と御家人が駆けつけるための道であるため、なるべく平坦で最短距離を結ぶ、高低差の少ない坂道、部分的には曲がっていても全体としては直線的、尾根や坂道では掘割状の凹道、台地や原野では道の両側に土手を築いている場所もある、二里から三里の間に宿を設けている、その近くには社寺が多い、河川流域の段丘を多く通っていること、つまり村と村の境界を通っている、このような特徴がうかがえる場所。



2015年04月22日 17:54
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