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11.09.19.水稲荷神社(西早稲田3丁目)

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写真: 11.09.19.水稲荷神社(西早稲田3丁目)

写真: 水稲荷神社(西早稲田3丁目) 写真: 甘泉園公園(西早稲田3丁目)清水徳川家下屋敷跡

mixiアルバム「水稲荷神社/甘泉園・御三卿/堀部安兵衛 ・高家/」
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047995923&owner_id=32815602
2012年01月20日 14:00

11.09.19.
西早稲田3丁目。
●水稲荷神社――
みずいなり。
・天慶4(941)年、藤原秀郷が冨塚(旧社地)に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷と命名。将軍稲荷とも呼ばれた。
御祭神――
倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)
佐田彦大神(さだひこのおおかみ)
大宮姫大神(おおみやひめのおおかみ)
※藤原秀郷(生没年不詳)――
平安時代中期の武将。下野大掾(しもつけだいじょう)藤原村雄の子。
藤原北家・魚名の後裔とされる。生母は下野掾鹿島の娘とする。俵藤太(田原藤太とも。たわらのとうた。)の通称で知られる。官位は従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍。死後、贈位を受け贈正二位。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説が有名。
もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒も多い。

・元禄15(1702)年、神木の椋の根元より霊水が湧き出し、眼病に利くと評判になり、また火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社と改名された。

・天明8(1788)年、京都御所の大火にて“江戸の水稲荷”を名乗る翁が現れ、消防活動の功を認められ、“関東稲荷総領職”を賜っている。
※天明8(1788)年1月30日、京都史上最大の規模の火災が発生した。当時の京都市街の8割以上を飲み込んだ。単に京都大火、または都焼けと言うとこの“天明の大火”を指すが、ほかに団栗焼け(出火場所の名)や申年の大火(当年十二支)とも呼ばれた。
東は河原町・木屋町・大和大路、北は上御霊神社・鞍馬口通・今宮御旅所、西は智恵光院通・大宮通・千本通、南は東本願寺・西本願寺・六条通に達し、御所・二条城、仙洞御所・京都所司代屋敷・東西両奉行所・摂関家の邸宅も焼失した。京都市中1967町のうち1424町、家屋は3万6797、世帯6万5340、寺院201、神社37が灰燼、死者1800名。


・昭和38(1963)年、早稲田大学と土地交換を行い、清水家下屋敷であった現社地に遷座。
境内にある高田藤塚は江戸では最古の冨士塚の移築である。

※稲荷大神の詳細はアメブロをご照覧あれ。


●甘泉園――
かんせんえん。
明和年間(1764〜1771年)に徳川御三卿(ごさんきょう) 清水家の下屋敷となった場所。当地から湧き出ていた水がお茶に適して評判だったことから、“甘泉園”と呼ばれた。
明治時代に相馬子爵家、昭和に早稲田大学、戦後に東京都、1969年から現在、新宿区管轄となっている。

※御三卿――
1.田安徳川(田安家)始祖は徳川宗武(8代将軍吉宗次男)
2.一橋徳川(一橋家)始祖は徳川宗尹(8代将軍吉宗四男)
3.清水徳川(清水家)始祖は徳川重好(9代将軍家重次男)
家格は御三家の次。それぞれ10万石と邸宅が与えられた。
三家の当主は、公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられることから御三卿と呼んだ。
姓は徳川。田安・一橋・清水の名称は、それぞれの屋敷地が所在する最も近い城門の名称に由来している。

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