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竹園山最勝寺教学院 目青不動尊(世田谷区)

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Photos: 竹園山最勝寺教学院 目青不動尊(世田谷区)

Photos: 竹園山最勝寺教学院 目青不動尊(世田谷区) Photos: 長延寺(杉並区)

旧参道。正面左手に教学院本堂がるのだけど……写真が……ない……( ̄△ ̄;)



mixiアルバム「教学院 目青不動堂/大久保氏」コピペ――
2012年02月10日 23:12
11.10.31.
●竹園山最勝寺教学院――
ちくえんざん さいしょうじ きょうがくいん。
天台宗。
本尊、阿弥陀如来。
札所本尊、不動明王。
創建、応長元(1311)年、玄応和尚。元は江戸紅葉山付近。※慶長9(1604)年創建説あり。
康正3(1457)年、江戸城築城にあたり、麹町貝塚に移転。
慶長9(1604)年、青山南町(百人町)に3000坪の土地を与えられ移転。
明治4(1911)年、太政官布告により、現在地へ移転。

お寺のパンフ――
『創建は応長元年(一三一一)で、江戸城紅葉山にあったという。開基は法印玄応大和尚である。その後大田道潅の江戸城築城により麹町貝塚に移され、また赤坂三分坂に移り、慶長九年には青山南町に三千坪余りの土地を拝領してみたび移転した。

青山南町は百人町ともいわれ、百人の同心が住んでいたという。この同心百人のうち三十七人が教学院の檀家に、六十三人が信者になり念仏講を結んでいた。この講の維持に一人三合宛の米を奉納していたので「三合山」とも呼ばれ親しまれていた。この佛米拠出により閻魔堂(現在の不動堂)が建立され、双盤念仏が盛んに行なわれていた。

当院は当初は山王城琳寺の末寺であったが、小田原城主・大久保加賀守忠朝の菩提寺となるに及び、東叡山寛永寺末となった。

明治八年には境内地百坪をさいて「幼童学校」を創立したが、後に青山南町小学校に発展した。その後太政官布達により、明治四十二年より三カ年を要して世田谷の現在地に移転し現在に至っている。』

境内に小田原藩大久保氏、荻野山中藩(駿河松長藩)大久保氏、烏山藩大久保氏の歴代藩主の墓がある。

※五色不動については→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000054483819&owner_id=32815602


マイマップ→ https://drive.google.com/open?id=1IPN9jzwy8ak1B2tVllsqRwvt7EW0BGCl&usp=sharing




↑コピペ……
五色不動
2012年03月25日 12:49

東京の五色不動は、目黒不動、目白不動、目赤不動、目青不動、目黄不動の5種6ヶ所の不動尊の総称。五眼不動、あるいは単に五不動とも。
五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、3代家光が天海僧正の建言により江戸府内から5ヶ所(江戸城から5方向)の不動尊を選び、江戸の鎮護と天下太平を祈願したことに由来する等の伝説が存在する。5色となっているのは五行思想の五色(ごしき。重んじられた青・白・赤・黒・黄で、それぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している)と言われる。最初に四神相応の四不動が先行し、家光時代ないしは後年に目黄が追加されたとして語られる場合もある。
史跡案内など多くの文献ではこの説話が記載されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきがある。
一方で五色不動を研究したいくつかの報告によると、実際に“五色不動”という名称が登場するのは明治末または大正始めで、江戸時代の史実とは考えにくいとされる。しかし、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られる。
名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持っている。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸名所として“三不動”で知られている。ただしこの呼び名も明治からである。
このうち、目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名ともなっていて有名。目黒は将軍家光の鷹狩りに関連して尊崇されていた。目白は、将軍家光が目黒にちなんで命名したとも、目白押しから名付けられたとも。
江戸時代には目がつく不動は3つしかなく、それをセットとして語る例は存在しない。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものと考えられる。
※五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通している。不動明王に限らず、明王は元来密教の仏像。
※五色不動を結んだ線の内側が“朱引内”あるいは“江戸の内府”と呼ばれたという説は事実ではない。幕末の朱引図は五色不動と関係なく作られたもの。

・所在――
目黒不動――瀧泉寺(東京都目黒区下目黒)
目白不動――金乗院(東京都豊島区高田。江戸時代は現在の文京区関口江戸川公園付近にあった新義真言宗新長谷寺の本尊)
目赤不動――南谷寺(東京都文京区本駒込)
目青不動――教学院(東京都世田谷区太子堂。本来の寺名は平井の目黄と同じ最勝寺)
目黄不動――永久寺(東京都台東区三ノ輪)
目黄不動――最勝寺(東京都江戸川区平井)

現在の住所は、明治以降、廃寺、統合などで不動尊が移動しているので本来の結界の役を失ったといっていい。
江戸時代初期の動坂(後述)には、伊賀の赤目に由来する赤目不動があったが、家光の命により目赤と名乗るようになり現在地へ移ったと称する。
目黒・目白・目赤の不動については、江戸時代の地誌に登場するが、天海と結びつく記述は一切ない。
教学院はもともと青山にあり、“青山の閻魔様”として親しまれていた。ここには近くにあった廃寺から不動像が移管されている。明治40年代にこの寺院は世田谷区太子堂に移転し、その頃から目青不動を名乗るようになった。
目黄不動は2箇所が同定されているが、いずれも浅草勝蔵院にあった“明暦不動”(のちに訛って、メキ不動と呼ばれたこともある)に近く、その記憶から目黄不動とされたのではないかと推測されている。
夏山雑談(寛保元年)には、目赤・目青も地名として記されているが、いずれも移転しており、移転をきっかけに名乗り始めたので誤り。
目黒の地名は目黒不動に因むという説があるが、古い地名であり、地名に由来して目黒不動となった可能性も高いと考えられている。
目白も上記同様に。

・諸説――
夏山雑談の記述には、天海が四方に赤・黒・青・白の四色の目の不動を置いたとしており、前述の浅草勝蔵院の「目黄」不動の噂にも触れているはいるが、目青や目黄の裏付けが取れなかったようだ。また当時の噂は四不動が主体で、目黄の扱いが曖昧だったことが見て取れる。
柳樽四十六篇(文化5年)では、“五色には 二色足らぬ 不動の目”という川柳が残されている。三不動しか知られていない一方で、五色に見立てる発想が確認できる。
明治以降、複数の目黄が乱立し、目青が登場し、従来の三不動も五色不動を名乗り始めた背景には、こうした都市伝説の影響があったのではないかと言われている。

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