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福泉寺(大阪市中央区)堀部弥兵衛 ・堀部安兵衛供養塔

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Photos: 福泉寺(大阪市中央区)堀部弥兵衛 ・堀部安兵衛供養塔

Photos: 法性寺(大阪市中央区)坂本龍馬の隠れ寺・ボードウィン寓居 Photos: 福泉寺(大阪市中央区)

福泉寺(大阪市中央区)
19.04.10.
寳聚山 福泉寺
宗派、法華宗真門流
本尊、?
開基、?
開山、慈眼院日銀
創建、文禄4(1595)年


巡回マップ→ https://drive.google.com/open?id=1KlRnw6KZ-A5BGVbVBAMR6aV9e_vo3FKG&usp=sharing



「水稲荷神社/甘泉園・御三卿/堀部安兵衛 ・高家/」→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047995923&owner_id=32815602
「中央区八丁堀1・2丁目」→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000080401710&owner_id=32815602

元禄赤穂事件関係記事→
http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000012061236&owner_id=32815602
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1002526324&owner_id=32815602
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http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000050711362&owner_id=32815602
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1531186258&owner_id=32815602



「水稲荷神社/甘泉園・御三卿/堀部安兵衛 ・高家/」 http://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000047995923&owner_id=32815602
https://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1499366623&owner_id=32815602

2012年01月20日 14:00
●堀部武庸――
ほりべ たけつね。
寛文10(1670)年~元禄16年2月4日(1703年3月20日))
通称は安兵衛。
赤穂浪士四十七士の一人。
四十七士中一の剣客。
江戸急進派勢力の頭。

越後国新発田藩 溝口家家臣 中山弥次右衛門(200石)の長男。母は新発田藩士溝口盛政の六女。
母は出産直後に死去。祖母の所で3歳まで育つが、祖母も死去し、再び父のところへ。以降は男手ひとつで育てられる。
天和3(1683)年、武庸が13歳の時、父が溝口家を追われて浪人となる。(諸説あるが、櫓失火の責を負って藩を追われたという『世臣譜』が有力。)
ほどなく父 弥次右衛門が死去。孤児となった武庸は、はじめ母方の祖父 溝口盛政に引き取られたが、盛政も2年ほどで死去。姉 きんの嫁ぎ先である長井家に引き取られた。

元禄元(1688)年、19歳になった武庸は、長井家親戚 佐藤新五右衛門を頼って江戸へ出、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門。
天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝。堀内道場の四天王と呼ばれるようになり、大名屋敷への出張稽古依頼が沢山くるようになった。
元禄3(1690)年、収入も安定するようになり、牛込天龍寺竹町(現 新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。

元禄7年2月11日(1694年3月6日)、同門の菅野六郎左衛門(伊予国西条藩 松平家家臣。武庸と親しく、甥叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を斬り倒した(※高田馬場の決闘)。
この決闘での活躍が「18人斬り」として江戸で評判になる。これを知った赤穂浅野家家臣 堀部金丸が養子縁組を望むが、武庸は中山家を潰すわけにはいかないと断っていた。
金丸の思い入れは強く、ついには主君の浅野長矩に「堀部の家名が無くなるとしても、中山安兵衛を婿養子に迎えたい」旨を言上。閏5月26日(1694年7月18日)、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可が出た。
これを聞いてついに武庸も折れ、中山姓のままという条件で堀部家の婿養子に入る。7月7日(8月27日)、金丸の娘 ほりと結婚、堀部金丸の婿養子、また浅野家家臣に列した。
元禄10(1697)年、金丸が隠居し、武庸が家督相続。この時、武庸は先の約束に基づき中山姓のままでよかったずだが、堀部姓に変えている。
堀部家は譜代の臣下であったが、武庸は浅野家中では新参(外様の家臣)に分類された。“堀部家の養子”としてはやはり異例の分類で、武庸は金丸の堀部家とは事実上別家扱いだった。
禄は200石、御使番、馬廻役。

元禄11(1698)年末、尾張藩主徳川光友正室 千代姫(将軍家光長女)が死去。諸藩大名が弔問の使者を尾張藩へ送る。赤穂浅野家は弔問の使者に武庸を選び、尾張名古屋城へ赴かせている。

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